春を待っている

木枯らしが吹くある日、わたしはお姉ちゃんと喧嘩して部屋を飛び出した。きっかけはほんとうに些細な、些細なことだ。

「晴花、いつまでここにいるつもり?学校は?」

いつかされると思っていたその質問に、反射的に言い返していた。

「お姉ちゃんだって、大学辞めちゃったじゃん!ほっといてよ!」

 

逃げこむ先は、いつも決まっていた。短い階段をたたたんと勢いよく下って、半地下ともいえる薄明かりのヨガスタジオのドアを開く。

「ミオさん」

自分でもびっくりするくらい声が震えていた。声をかけたそのひとに、バレてしまっただろうか。おそるおそる顔を上げると、そこにはいつもの仏頂面を張り付けたミオさんがヨガマットの上に立っていた。

「もうっ!先生と呼びなさい。せ・ん・せ・い!」

「はあい。ミオせんせー」

それでいいのよそれで、とブツブツ言いながらも、ミオさんはわたしの分のマットを広げてくれた。

スラリと伸びた長い足。腰から背中、肩、首へと続く美しいライン。それはまさしく、みんなのあこがれる理想のヨガインストラクターそのものの姿。

ただひとつだけ、違うとすれば・・・

 

「ミオせんせー、今日もイケメンだね」

「やめて。美人と言って。ぜんぜん嬉しくないわ」

「だってしょうがないよ、イケメンだもん」

 

ミオさんは男だ。まるで女性のような言葉づかいをする、それでもれっきとした男性である。そう、ミオさんはいわゆる・・・

 

「ミオさんは、やっぱり男性が好きなの?」

「そうねえ」

 

しんと静まり返ったヨガスタジオに、ふわっとサンダルウッドの香りが漂う。ミオさんが準備したお香の香りだ。

クラスの開始時刻まで、まだ時間がある。わたしは続けて問いかけた。

 

「どんなタイプの人が好き?」

「何よ。聞いてどうするの」

「紹介してあげようかと思って」

「やだ、もしかしてこの前の?」

 

この前の、というのは、わたしがモッチーの部屋に潜入した話のことだ。

 

「いやあよ、そんな得体の知れないオトコ」

 

会ったこともないモッチーを、彼はいきなり一刀両断した。

驚いて目を丸くするわたしを窘めるかのように、ミオさんがキレイな顔をしかめながら言う。

 

「顔と人当たりが良すぎるオトコは信じてないの、あたし。ぜったいに何か裏があるんだから」

「そうかなあ。モッチーはいい人だよ。ちょっとずるいところがあるけど」

「そこがダメって言ってるの」

 

そのひとことには、そうかもしれない、と頷いてしまうような謎の説得力があった。

ミオさんはわたしなんかよりもずっと、つらい経験やしんどい修羅場をくぐり抜けてきたんだろう。容易く想像できた。

わたしがぐるぐる考えているうちに扉が開いて、ヨガクラスのほかの生徒たちが続々と入ってきた。みんなヨガウェアをばっちり着こなして、静かだったスタジオ内が一気に喧噪に包まれる。

そりゃそうだよね、ミオさんのクラスだもん。ミオさん目当ての女子で満員御礼だ。

わたしはその中で、身を縮めて座り込んだ。

わ、わたし今日、部屋着のロンTともこもこパンツで来ちゃった・・・。

 

「しゃんとしなさい」

 

耳元でミオさんに囁かれて、「ひゃっ!?」と変な声が出た。いつの間にかしゃがんだミオさんと、マットの上で目が合う。

 

(ミオさん、顔、近い・・・!!)

 

わけもわからず慌てているわたしに、ミオさんがふっと笑ってみせる。

 

あ、スイッチが入った。ここからはわたしが知ってる仏頂面のミオさんじゃなくて、ヨガインストラクターのミオさんの時間だ。

ミオさんが自分の後ろ髪をヘアゴムでくくる。ヨガの邪魔にならないように、そっと持ち上げて。

その所作さえも美しく、わたしはじっと見とれていた。

 

「小さくなる必要はないのよ。堂々となさい。あなたは充分、ありのままでトクベツよ」

「あ・・・・・・」

 

きっと、彼は最初から気づいていた。わたしが自信をなくしていることに。

 

「ミオさんには、かなわないな・・・・・・」

 

ぼそっとつぶやいたわたしの声は、もうミオさんには届かない。

クラスが始まる。ミオさんの長い手足が、ゆっくりと宙を舞う。それはまるで、いつか神社で観た奉納の舞のようだ。

神聖で、手の届かない、トクベツの中のトクベツな。

 

知られてはいけない。この想いだけは、隠し通す。

決心しながら、深く深く息を吐く。

 

ミオさんに焦がれている限り、わたしに春はやってこない。

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